山田太一(脚本家)が脳出血で断筆宣言!代表作は?妻や娘と息子もリサーチ!

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こんにちは!テレビドラマが大好きな管理人です。

昔はよく民放のドラマを見ていましたが、今はNetflixで海外ドラマを見ています。時代が変わったなぁ。。。

そんな管理人ですが、昭和世代を代表するイメージが強い脚本家が、山田太一さんです。

さすがに私も「ふぞろいの林檎たち」のオープニングで林檎がぴょんぴょん飛んでいるのは覚えていますが、、、子供だったので内容までは覚えていないですね。

山田太一さんは2017年現在、83歳。最近お姿を拝見しないなと思っていたら、、、なんと脳出血を患われてしまったそうです。

当ブログでは以前、大林宣彦監督が肺がんになったことを記事にしましたが、、、時代を築いた巨匠が大病を患うニュースが増えてきた気がします。

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そこで、今回は山田太一さんの状況やご家族、代表作などについてリサーチしました。

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脳出血で断筆宣言!

山田太一さんが脳出血で倒れたのは、2017年の1月のことでした。

TBSで1977年に放送された名作ドラマ、「岸辺のアルバム」の舞台にもなった多摩川の近く、神奈川県川崎市の住宅街にある自宅を出た際に倒れ、そのまま意識不明で救急車で搬送されました。

そこから3日間は全く記憶がないそうです。怖いですね。。。

また、山田太一さんはそれまでは全く病気になることがなく、風さえもほとんどひいたことがなかったそうです。

脳出血は突然くると言いますが、本当ですね。

退院したのは約半年後の6月でした。

山田太一さんは自宅の2階を仕事場にしていましたが、退院後は1階のリビングで過ごすことが多くなったそうです。

ご自身のライフワークとも言える、脚本の執筆については、現在は全く行なっていないのです。

脳出血のダメージは大きく、現在は文字を書くのもテレビを見るのも疲れて気力がなく、まだ右足も引きずっている状態です。

さらに、未だに時々記憶が飛んでしまったり、思っていることをしっかり表現できないような状況なので、脚本の執筆どころか雑誌等の取材もお断りされているそうです。

さぞかし残念なのかと思いきや、ご本人は以下のように語っています。

「人生は自分の意思でどうにかなることは少ないと、つくづく思います。生も、老いも。そもそも人は、生まれたときからひとりひとり違う限界を抱えている。性別も親も容姿も、それに生まれてくる時代も選ぶことができません。生きていくということは限界を受け入れることであり、諦めを知ることでもあると思います。でも、それはネガティブなことではありません。 諦めるということは、自分が“明らかになる”ことでもあります。良いことも悪いことも引き受けて、その限界の中で、どう生きていくかが大切なのだと思います」
「もう脚本家として原稿が書ける状態ではありませんが、後悔はしていません。これが僕の限界なんです」

悟りのような境地ですね。。。

確かにもう83歳ですし、十分すぎるほど大きな功績を残して来られましたので、ゆっくりと休まれるのも良いのでは、と管理人も思います。

また気力や体力を取り戻したら、お気持ちも変わるのではないでしょうか。

妻や娘、息子は?

代表作「岸辺のアルバム」など、良質なホームドラマの脚本を手がけてきた山田太一さん。

ご自身の家庭はどうなのかというと、奥様、娘さん、息子さんの4人家族で幸せな家庭人としての顔もお持ちです。

現在は奥様の和子さんとご自宅で二人暮らしをしています。

娘さんである宮本理江子さんはフジテレビの編成制作局ドラマ制作センターの副部長です。

そして、息子さんは、撮影監督である石坂拓郎さんです。

さすがあの山田太一さんのご家族ですね。お父様の影響が息子さん、娘さんに非常に大きかったことが伺えます。

寺山修司は早稲田大学の同窓

ここで1つ豆知識を。(笑)

なんと、あの劇作家の寺山修司さんと山田太一さんは早稲田大学の同窓です。

山田太一さんは、大学時代のことを以下のように語っています。

小田原高校を卒業後、本好きが高じて早稲田大学教育学部の国語国文学科へ。そのとき、同じ学科にいたのが寺山修司さんです。とても気が合って、親しくなりました。彼がネフローゼで入院したときは、連日、見舞いに行って、彼のお母さんに叱られました。

彼の作品を読ませてもらったこともあります。俳句も良かったのですが、一番優れていたのは短歌ではないでしょうか。一方、私は彼の韻文と戦う力はなく、散文で立ち向う気持ちになっていました。

寺山修司さんに敵わないと感じた部分から、ご自身の強みを生かしてのちの脚本家としての才能を開花させて行くのですから、人との出会いがやはり大きいのですね。

お二人の親交は上のインタビューからも分かるように非常に深く、学生時代には手紙を交わし合っていました。

それを一冊の本にまとめたのが、「寺山修司からの手紙」という本です。

当時の二人がお互いの才能を認め合い、そしてお互いを求め合う姿がはっきりと感じ取れる、公開ラブレターのような本です。

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のちに、寺山修司さんが脚本した映画である「夕陽に赤い俺の顔」と「わが恋の旅路」で山田太一さんが助監督を務め、間接的かもしれませんが、夢の共演をされています。

代表作

最後に、山田太一さんの代表作をまとめておきます。

ブリタニカ国際大百科事典の山田太一さんの項目に特に評価の高い作品がまとめられていますので、ご紹介します。

放送作家,作家。本姓石坂。
1958年早稲田大学教育学部卒業後,松竹に入社し,大船撮影所演出部に勤務。
65年退社,以後テレビドラマの台本を手がける。
73年『それぞれの秋』で芸術選奨新人賞を受賞したのをはじめ,高視聴率のすぐれた作品を次々と発表。
77年,核家族の姿を主婦の目から克明に描いた『岸辺のアルバム』で話題を呼んだ。
代表作はほかに『思い出づくり』 (1981) ,『ふぞろいの林檎たち』 (83,85,91) など。
映画,舞台,小説の分野でも活躍し,特に小説『飛ぶ夢をしばらく見ない』 (85) ,『異人たちとの夏』 (87) ,『遠くの声を捜して』 (89) の3部作などで作家としての地位を確立した。

未だに根強いファンの多い山田太一さん。これまでの作品群から、日本のエンターテイメント界の歴史に確実に名前を残すこととなるでしょう。

ハジメテトピックスは、山田太一さんの体調の回復と脚本家としての復活を応援しております!

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