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こんにちは!長男の影響ですっかり新幹線好きになってしまった管理人です。
多くの男の子がそうであるように、我が家の長男も乗り物が大好きです。
中でも新幹線は本当に大好きで、はやぶさやかがやき、こまちやつばめなどのトミカやプラレールなどを大量に保有しております。
トミカやプラレールは子供向けとはいえ、精巧にできていますし遊びの自由度も高いので、アラフォーの管理人の好みのポイントもガンガン突いてきます。(笑)
管理人一家が住む宮崎には残念ながら新幹線は走っていないのですが、我が家は全員新幹線にやたら詳しいです。(笑)
そんな管理人が今回ご紹介するのは、日本で最初の新幹線の運転手である大石和太郎(おおいしかずたろう)さんです。
実は大石和太郎さんは日本で最初の新幹線の運転手というだけでも凄いですが、多彩な趣味もお持ちで、知る人ぞ知る方なのです。
そこで今回は、大石和太郎は東海道新幹線の一番列車運転士!経歴や蒸気機関車との関係もリサーチしてみました!
東海道新幹線の一番列車運転士!
大石和太郎さんは、1964年10月1日の東海道新幹線開業日、午前6時に新大阪駅ー東京駅間の4時間を運転した「ひかり」の一番列車運転士として知られています。
経歴で後述しますが、国鉄運転士として様々な列車の運行をしながら新幹線運転士の試験に合格し、31歳の若さで一番列車の運転士になりました。
国鉄で、しかも新幹線の運転士なんてまさにエリート中のエリートですね!
開業の一年前から準備室に配属され、モデル線にて試運転を何度もしていましたが、全線のレールがつながったのはなんと開業のわずか3カ月前だったそうです。
様々なトラブルが起こり、開業前日までまともに定時で運転することが出来ず、ぶっつけ本番の状態だったとか。
当時は東京五輪開幕を目前に控え、新幹線の事業はまさに国家プロジェクトとも言える大事なものでした。
安全に運行することはもちろんのこと、定刻に東京駅到着が絶対条件とされていたそうです。
しかし、試運転では時速210キロまで出すことが出来ましたが、安全を考慮し「最高速度は160kmで行く」と大石和太郎さんは上司から1ヶ月前に命じられてしまいます。
アメリカなど諸外国の特急列車の最高時速が当時時速160km位だったため、世界一を目指すにはそれを上回らないといけない、という思いがあったようです。
「夢の超特急」の企み
1964年10月1日の東海道新幹線開業日当日早朝、始発の新大阪駅に着いた大石和太郎さんは、ホームが待ちわびた大勢の人達で溢れかえっていてとてもびっくりしたそうです。
盛大なセレモニーが行われ、何にも聞かされておらず戸惑いながらも花束を受け取る大石和太郎さんの姿が、当時の映像を見ると映っています。
午前6時、定時に新大阪駅を発車した大石和太郎さんは、「何としても210kmを出す」と、心に決めていたそうです。
当時新幹線は200kmを出す「夢の超特急」と言われており、マスコミにもてはやされていました。
ならば、最高速度と言われている200kmよりもギリギリの210kmまでおまけして出してやろうと思ったそうです。(笑)
車掌からも「いつ時速200キロ出るんだい。お客さんが速度計の前で待ってるよ」と言われてしまいます。
大勢の注目を集め、乗客もみんな楽しみにしている、160kmという運転は出来ない、と通達に背く決意を固めました。
しかし、東京までの所要時間は時速160kmを想定して4時間というダイヤが組まれており、210kmを出してしまうと絶対条件の定刻到着が出来なくなる恐れがありました。
そこで大石和太郎さんは京都駅を出発したあたりで、わざと70kmに落として運転をする作戦に出ます。
特急列車よりも遅い速度ですので、普通に考えたらあり得ない運転です・・・。
しかし、指令所からの問い合わせや、同乗していた上司からも、大石和太郎さんの作戦を咎めることがなかったことから、皆の思いも一緒だと確信します。
なんか、映画のヒーローみたいでドキドキしますね!
そして、新幹線が大津市に入ると加速を最大にしたそうです。
速度計は時速160kmを超え、瀬田川橋梁という所を過ぎた所で、とうとう210kmに達しました!
車内のビュッフェに設置された速度計の前に集まっていた乗客や報道関係者からは歓声が起こり、大変な騒ぎだったそうです。
結局、東京駅に着くまでの間に2度も200km超えを大石和太郎さんは成功させ、さらに列車は定刻10時ぴったりに東京駅に到着することができました。
エリートの切れ者で、しかも命令に背いても皆んなの意思を受けて実行、さらに定刻ピッタリに到着させるなんて、めちゃくちゃかっこいいですね!
ちなみにこの運転に関してのお咎めなどは一切なかったそうです。
皆、口には出せなくても心のどこかで大石和太郎さんならやってくれるはず、という思いがあったのかもしれませんね!
経歴は?
大石和太郎さんは、1933年生まれの2017年現在、84歳。
東京都の出身です。
大石和太郎さんは1953年、20歳の頃に国鉄に入社しました。
運転士として様々な列車の運航に携わりながら1962年、29歳の時に新幹線の運転士採用試験を受けます。
試験を受けた理由は、「一番新しく早いものを運転したかった」というのと、「結婚して家のローンを抱えていたから、新幹線の運転士になれば給料が上がると思った」そうです。
なかなか正直な同期ですね。結果、給料はさほど上がらなかったそうですが(笑)、無事運転士の試験に合格します。
その後、1963年に東海道新幹線の開業準備室に配属されました。
そこで試作車の試運転を何度も繰り返します。
そして運転の技術が認められ、31歳の若さで新大阪駅発の「ひかり」の1番列車運転士に抜擢されます。
以来、1985年51歳の時まで0系新幹線運転士として活躍されていました。
お金を払ってでも運転したいくらいの乗り物好きだそうで、なんと小型船舶と自家用飛行機の免許も持っているとか!
ちなみに新幹線の運転士に向いているのはどんな人?という問いに「極端に言えば同時に複数の女性と付き合えるような人」と答えられていました。(笑)
同時に複数の操作をこなさないといけないため、細やかな気配りが運転に求められるそうです。
蒸気機関車との関係もリサーチ!
上でご紹介した通り、新幹線の運転手であった大石和太郎さんですが、熱心な蒸気機関車のファンとしても有名です。
専門誌各誌にご自身が撮影された写真を発表されたり、お仲間と数々の動画をまとめられたりされており、その完成度は非常に高いと評判です。
上の写真は、大石和太郎さんが撮影された動画をまとめて、一般に発売されたDVDです。(Blu-rayもあります)
紹介文を引用しますね。
懐かしの時代を牽引した蒸気機関車の雄姿
16mmフィルムでの撮影による貴重な映像集昭和40年代、日本国内でその役目を終えつつあった蒸気機関車。
国鉄の機関士として、その巨体を操り峻険な峠を越えた経験を持つ大石和太郎 にとって、慣れ親しんだ蒸気機関車が消えてゆくのはこのうえなく寂しいことであった。
その引退を止める事はできないにせよ、せめてきちんとした記録を残すことは自らの 責務と各地に赴き、写真はもちろん、16ミリフィルムによる高画質動画の撮影に勤しんだ。
本作品は、記録フィルムの持ち味を損ねないよう24コマ/秒のプログレッシブ方式(24p) でテレシネを行い、フルハイビジョン規格にデジタルリマスターして編集した。
一般的な8ミリフィルムの画質とは別次元の高画質・高精細な画像で、躍動する蒸気 機関車の姿は必見。
ブルーレイ版・前編では北海道と東北の蒸気機関車の映像を紹介。 迫力ある走行シーンはもちろんのこと、要所で駅や車内の様子、熱気が伝わるキャブ の様子なども随時挿入している。
また本編の副音声には大石氏・鉄道アイドル木村裕子氏・制作ディレクターによる オーディオコメンタリーを収録。往時の思い出や裏話などを大いに語っている。
また、ブルーレイ版には見応え満点の映像特典も収録。
うーむ、これはかなり本格的ですね!!!ご自身で撮影したものがこうして商品になり、オーディオコメンタリーまで収録されるとは。。。
趣味人として、尊敬します。ここまで突き詰めれば立派な商品になるんですよね。
ということで、ハジメテトピックスでは大石和太郎さんをこれからも応援し続けます!!!