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阿久悠の妻や息子は?家族や代表曲と印税もリサーチ!

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こんにちは!音楽大好きな管理人です。

先日、NHK BSプレミアムの「The Covers」という番組にクレイジーケンバンドが出ていて、

「太陽にほえろ」などの昭和の警察番組のカバーをしたり、ミッツマングローブらが昭和の女性歌手の曲をカラオケで歌ったりしていました。

正直、30代半ばの私にはドンピシャではないのですが、うっすら子供の頃に聞いていた記憶が残っています。

やはり歌謡曲時代は、今のJ-POPにはない「大人の色気」がありますね。

昔と今のヒットソングで1番違うのは歌詞なんじゃないかな、と思います。

最近の歌詞は、「恋愛もの」か「応援ソング」、もしくは「感謝ソング」ばかりですよね。

しかし昭和歌謡は違います。

特に私が凄いなと感心するのは、ピングレディーの「UFO」や「ペッパー警部」などです。

UFOはまだ知ってますけど、ペッパー警部ですよ!ペッパーランチの常連さんですか?(笑)

今だったら絶対にこんな内容の歌詞は売れてないだろうし、そもそも発売もされていないんじゃないでしょうか。(笑)

このどちらの曲も、作詞を手がけたのはあの阿久悠(あくゆう)さんなんですよね。

今年2017年は阿久悠さんの没後10年ということもあり、再評価の兆しが高まっています。

実は、阿久悠さんのご両親の出身は管理人が住む宮崎県ということで、縁があります。

音楽好きとしても、宮崎県民としても、もっと阿久悠さんのことを知っておきたい!ということで色々とリサーチしました。

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阿久悠の妻や息子、家族は?

阿久悠さんは10年前の2007年の8月1日、尿管がんが原因で70歳でお亡くなりになりました。

作詞家だけでなく、放送作家、小説家、詩人など多彩な才能を持ち、日本に文化史に金字塔を打ちたてました。

そんな阿久悠さんには奥様や息子さんなどのご家族はいらっしゃっるのでしょうか。

奥様と一人息子である長男は、何度か公に姿を現しています。

奥様のお名前は深田雄子さん、息子さんは深田太郎さんと言います。

奥様である雄子さんと阿久悠さんの馴れ初めですが、1964年にお2人が勤務していた広告代理店で出会い、職場結婚されます。

実は、雄子さんの妹さんは阿久悠さんの秘書をされていました。

阿久悠さんがお亡くなりになる数年前まで勤務されていたようです、

阿久悠さんは奥様のご家族まで面倒を見られていたのです。

そして、2017年現在は50代前半である一人息子の太郎さんは何をされているのかというと、阿久悠さん同様音楽の世界に生きていらっしゃいます。

実は、作曲家として椎名へきるさんや坂井真紀さんなどに楽曲を提供したり、お父様である阿久悠さんと共同で本田美奈子さんの曲を手掛けたこともあります。

ですが、残念ながらこれといったヒット曲には恵まれていないのが現状です。

また、インディーズバンドである「ラットパトロール」というのバンドでギタリストを務めたりもされています。

2世ミュージシャン、二世俳優は大成しない、というのはよくある話です。

やはり親の代は「のし上がっていこう」というハングリー精神があったでしょうが、2世は既に親が成功を手に入れていますので、環境的にも恵まれていますよね。

その環境が才能を潰してしまう、ということがあるのではないかなと思います。

気になる印税は?

日本の芸能誌の中でもトップテンに入るほどの成功を収めた阿久悠さん。

生み出してきた楽曲(作詞)は5,000曲以上、そしてその売り上げは7,000万に枚近いです。

また、作詞だけでなく小説やドラマ等の原作などでもたくさんのヒットを飛ばしています。

それだけ売れて、印税は一体いくらくらいなのでしょうか。

なんと、歌詞の印税だけで年収数億円は稼いでいたそうです!

高額納税者番付で頻繁に名前を見ることができます。

お亡くなりになる2007年の直近である2005年は、1億9,000万円、2004年は2億3,100万円の収入があったことがわかっています。

また、静岡にあるご自宅や、都内の仕事用のマンションなどの不動産もお持ちですので、総資産は100億円近いのではないかとも言われています。

数々の名曲を生み出した阿久悠さん。私のような下の世代の人間もその曲や歌詞は知っていますし、これからも歌われ続けるでしょうから、印税については今後も入り続けることでしょうね。

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代表曲は?

5,000曲以上の作詞を手がけた阿久悠さん。

数ある楽曲の中から、代表曲と呼べる作品を売り上げトップ10を参考にご紹介します。

阿久悠 シングル売上 TOP 10 (2014年現在)
1位 – 「UFO」 ピンク・レディー
2位 – 「サウスポー」 ピンク・レディー
3位 – 「北の宿から」 都はるみ
4位 – 「ウォンテッド (指名手配)」 ピンク・レディー
5位 – 「モンスター」 ピンク・レディー
6位 – 「青春時代」 森田公一とトップギャラン
7位 – 「渚のシンドバッド」 ピンク・レディー
8位 – 「また逢う日まで」 尾崎紀世彦
9位 – 「時の過ぎゆくままに」 沢田研二
10位 – 「勝手にしやがれ」 沢田研二

さすがに知っている曲ばかりですね!

作詞家になるまでの経歴は?

作詞家という職業は、会社員と違い、「このタイミングから作詞家になった」とはなかなか言いづらいですよね。

また、バンドなら「プロデビュー」みたいに分かりやすいタイミングがありますが、作詞家はどうなのでしょう。

阿久悠さんが作詞家としてデビューするまでの経歴をまとめます。

そもそも、阿久悠さんはペンネームでして、お名前の由来はBad Friendの「悪友」からきています。なんとなく意外です。(笑)

また、別のペンネームとしては多夢星人(たむせいじん)という名義も使用されていました。

ご両親の出身地は、宮崎県児湯郡川南町出身で、お父様の定年と同時に宮崎に戻られます。

しかし阿久悠さん自身は転居を繰り返すこととなります。

お父様が兵庫県警巡査であった幼少期は、お父様のご都合で津名郡内を数年おきに転居することとなります。

小学校は洲本市立都志小学校を卒業。

中学校は五色町立都志中学校、一宮町立江山中学校、五色町立五色丘中学校の3つに通います。

高校は兵庫県立洲本高等学校を卒業され、大学は明治大学の文学部を卒業されます。

初めての就職は1959年(昭和34年)でした。

広告代理店である宣弘社へ入社され、コピーライターやCM制作などを手がけながら、1964年(昭和39年)からは放送作家としても活動し始めます。

しかし、1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し、放送作家や作詞家としての活動を本格化させていきます。

作詞についてはどうやって勉強されたのかというと、放送作家として音楽番組の台本を書いているときに。その番組中に歌われる歌の歌詞を写すことで作詞の勉強をされていったとのことです。

この1966年以降、私たちが知っているような作詞家、阿久悠さんの活動が始まります。

その後の活躍は、皆様もご存知の通りです。

没後10年、生誕80年を経て、ますますその作品性の高さが評価されている阿久悠さん。

ハジメテトピックスはこれからも阿久悠さんやその作品を応援し続けます!

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